ごあいさつ

 私は、1948年(昭和23年)に石垣市宮良村で生を受け、高校卒業後、波照間での代用教員を経て、進学のため上京し、東京・沖縄本島で約40年間過ごした後、2005年(平成17年)還暦を前に故郷・八重山にUターンしてきました。

 今、還暦を超え、人生の終盤に差し掛かり、私が先輩方から受け継いだ価値観・世界観・人生観、そして私自身の八重山に対する溢れ出る思いを、次代を担う若者に伝えたいと思うようになりました。そこで、八重山に生きる若者に向けて情報を発信すべく、このようなサイトを開設した次第です。

 

 

ユンタ・ジラバとは、かつて封建的な身分制度があった頃、
八重山の農民階級(ブザ)の間で唄われていた労作唄の総称です。
三線の伴奏がある士族階級(ユカルピトゥ)の音楽とは異なり、
楽器を持たない農民の唄ですので伴奏はありません。
やがて身分制度の崩壊とともに、士族階級の三線音楽が農民階級へと広まり、
ユンタ・ジラバは次第に唄われなくなりました。

そして現在では、方言人口の減少によって唄い手も減り、

労働現場の機械化によって唄われる場もなくなり、
三線音楽の隆盛とは対照的に、風前の灯(ともしび)です。

 

しかし、唄に込められた農民の願いや思いは、
現在でもなお意義を失っていないと思います。

「うらふねゆんた」はその中の1曲です。
八重山の農民が首里王府から人頭税という重税で苦しめられていた頃、
農民の納めた米や反物を積んだ公用船(蔵船、うらふね)が、
無事沖縄本島まで到達するよう、航海の安全を願った唄です。

私の思いが八重山の若者の心に届くことを願い、
冒頭の一句からこのサイトを命名しました。

2010年7月13日 今日の日をもとにして

うらふねゆんた
 
(ふんくい)


きゆぅぬぴぃばよホリサ くがにぴぃばよ むとぅばしヨホイ ひよなはいふ

〔今日の日を、黄金のような日をもとにして〕


ばがふにやょホリサ なゆまちどぅよ まちおるヨホイ

〔われらが船は、何を待っているのだろうか〕

 



(うらんぐい)


かじまちどぅ ういまちどぅ まちおるヨホナイ


〔風を待っているのだ、追い風を待っているのだ〕


じぃまぬかじ とぅきぃぬうい まりかじヨホナイ


〔どの方角から、どのタイミングで吹く風か〕


んまぬばぬ ぴちぃぬばぬ ましょうかじヨホナイ


〔午の方角、未の方角(*1)から吹く風だ〕


しらくむぬ むりくむぬ したからヨホナイ


〔白くわき上がる雲の下から〕

やらやらとぅ やふぁやふぁとぅ まりかじヨホナイ


〔そよそよとやわらかく吹く風だ〕


くぬかじや ただぬかじ あらぬそヨホナイ


〔この風は、ただの風ではない〕

ぶわまきゃぬ ぶなりゃまぬ にがいかじヨホナイ


〔叔母たちや姉妹たちの願いを乗せた風なのだ〕


くぬかじに ばがふにや いだしょうりヨホナイ

〔この風に、われらが船を出航させよう〕


ちぃなばとぅり いかりぃぬし いだしょうりヨホナイ


〔綱を引いて、いかりを乗せ、出航しよう〕


いだしから ぱらしから きゆみーがヨホナイ


〔出航し、走らせて、今日で三日になる〕


あらぱなぬ まはじみぬ うがまりヨホナイ

〔最初に、真っ先に、拝めるのはどこか〕


まいきらま くばぬだき みらりそヨホナイ


〔前慶良間(*2)の久場岳が見えた〕


うりからぬ またからぬ うがまりヨホナイ

〔それから次に拝めるのはどこか〕

うんぐしく うしゅぬすま うがまりヨホナイ

〔首里城、国王の島を拝めた〕

なはんなとぅ ふなしきに いりなぎヨホナイ


〔那覇港の船着き場に入港し〕


なはぬずり じんとぅりゃに むかいらりヨホナイ


〔那覇の女郎、銭取りの人々に、迎えられた〕


ちぃじぃぬずり かにとぅりゃに てぃとぅらりヨホナイ

〔辻の女郎、金取りの人々に、手を取られて迎えられた〕

 

*1 午(うま)の方角=南、未(ひつじ)の方角=南南西
*2 慶良間諸島のうち沖縄本島から見て手前に見える渡嘉敷島の一帯

 

出典:『宮良村古謡誌』(1979年、宮良村古謡保存会)
(出典元には当時の編纂委員による流麗な意訳が付されていますが、閲覧者の便宜を考え、所々直訳風に変更しました。)